北里柴三郎がノーベル賞を受賞できなかったのはなぜ?何をした人なのか分かりやすく解説

政府が紙幣の刷新を2024年の上半期に行う、と発表しましたね。

表と裏のデザインが変わるわけですが、紙幣の表側に印刷される人物の肖像画は、1万円札は福沢諭吉から渋沢栄一に、5000円札は樋口一葉から津田梅子に、1000円札は野口英世から北里柴三郎になるとのこと。

5000円札と1000円札は2004年に変わっているので20年ぶりになりますが、1万円札は1984年以来の刷新なので、なんと40年ぶりの変更です。今回は、1000円札の肖像画に選ばれた北里柴三郎を取り上げて、彼がどんなことをなした人物だったのか、その功績などについて紹介したいと思います。

 

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北里柴三郎って何をした人なの?

北里柴三郎は、「日本の細菌学の父」であり、北里大学をはじめ、現在の東京大学医科学研究所、北里研究所、北里大学北里研究所病院、慶應義塾大学医学部などの創立者です。

彼は、1853年に熊本に生まれ、18歳で熊本医学校(現在の熊本大学医学部)に入学し、そこでオランダ人の医師、マンスフェルトと出会い医学に傾倒していきます。さらに彼は、21歳の時に、医学を極めるために東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学します。

30歳で医学校を卒業した彼は、在学中に、病気を予防することこそが医師の使命であると確信し、内務省衛生局に入局して細菌の研究に従事します。

32歳から38歳までドイツに留学し、病原微生物学の第一人者と言われていたローベルト・コッホに師事します。36歳の時に破傷風菌の純粋培養に成功し、37歳の時にその免疫抗体を発見し、それによって破傷風の血清療法を確立します。

このことで、彼、北里柴三郎の名は、世界的な研究者として知れ渡ることになります。明治23年のことです。

その後、39歳で帰国した彼は、伝染病研究所を設立し、そこでさらなる研究に取り組みます。

41歳の時には、ペスト菌を発見。再び世界に大きく貢献します。

この後も、彼は、狂犬病その他の伝染病の血清開発に取り組みます。大正時代に入ると彼は、日本結核予防協会を皮切りに、研究所や病院を設立し、日本の医学界の発展のために尽力します。

そして昭和6年、78歳の時に東京にて逝去します。脳溢血だったとのことです。

 

北里柴三郎がノーベル賞を受賞できなかったのはなぜ?

 

北里柴三郎は、上述のように、37歳の時に破傷風の血清療法を確立しました。明治23年、西暦1890年のことです。同年、彼は、この血清療法を応用して、ドイツ人の医師ベーリングと共にジフテリアの血清療法に取り組みます。

そして、2人の連名で論文を発表し、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補者に選ばれます。しかし、実際に受賞したのはベーリングだけで、柴三郎は受賞することはありませんでした。どうしてだったのでしょう。考えられる理由として当時から上がっているものは、次の4つです。

  1. ベーリングはすでに単独で、別途ジフテリアの論文を発表していた。
  2. 連名ということで北里柴三郎はアシスタント的存在だと見なされた。
  3. 共同受賞という発想がなかった。
  4. アジア人、特に鎖国直後の日本人に対する人種差別や偏見があった。

 

ベーリングは、受賞後、すべてが北里柴三郎の研究があってのことだ、ということをいろいろなところで明言したために、この時も北里柴三郎の功績は世界中で認められたそうです。が、いずれにしても、何が理由か、その真偽のほどはわかりません。でも、血清療法御本家の北里柴三郎が受賞できなかったのは本当に残念ですね。

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まとめ

北里柴三郎は、当時、治療法もわからずにかかると死ぬしかない、といった伝染病から大勢の人々の命を救うという偉業を成し遂げただけでなく、予防医学と免疫療法の重要性を日本医学会に知らしめ、後進を育てるための研究所や大学を設立しました。

それも、名誉や名声や金銭的な富を得るためではなく、人々を救いたいという一途な情熱からでした。そのおかげで、今わたしたちは、いろいろな伝染病から守られているわけです。

まさしく「医は仁術なり」ですね。紙幣が刷新されたら、1000円札、大切に使うことにいたしましょう。

 

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最後までお読みいただき、ありがとうございました!